現場の仕事で内本町のあたりを車で通るたび、ふと気になることがあります。
住所としては「内本町1丁目」「内本町2丁目」「内本町3丁目」という、いたって普通の町名なのに、自治会の掲示板や地元の方との会話には、
浜の堂、田中町、浜田町、西奥町、都呂須町、砂子町、堀奥町、宮之前、川面町、南町……
といった、住所には出てこない名前が次々に登場するのです。
これは単なる昔話や古い資料の中だけの話ではありません。吹田市が公開している自治会区域を見ても、内本町1〜3丁目には「西奥町」「都呂須町」「砂子町」「宮之前」「川面町」といった名称が、現在も自治会名として実際に使われています。
住所としてはひとつの「内本町」。けれどその下には、いくつもの時代と地域の記憶が重なっています。今回は、遺跡、地形、神崎川、街道、そして江戸時代の吹田村という切り口から、内本町の歴史をたどってみたいと思います。
この記事でお伝えしたいこと
- 弥生・古墳〜鎌倉期(2025年発掘の柱跡・青磁出土)の集落痕跡「都呂須遺跡」
- 低湿地の中で人が集まった微高地「吹田砂堆(すいたさたい)」の地形的理由
- 785年三国川開削から始まった神崎川水運・吹田の渡・旧亀岡街道の交差点
- 仙洞御料の庄屋・旧西尾家住宅と、旗本領が入り組んだ江戸期の吹田村「渡路洲」
- 内本町1〜3丁目の中に今も自治会名として生き続ける多彩な歴史的旧町名
内本町の地下には、江戸時代よりはるか昔の町が眠っている
内本町の歴史を語るうえで欠かせないのが「都呂須遺跡(とろすいせき)」です。
吹田市によると、都呂須遺跡は現在の内本町2丁目から元町にかけて所在し、弥生時代・古墳時代の土器のほか、発掘調査によって鎌倉時代の大規模な溝や江戸時代の井戸なども確認されています。つまりこのあたりは、江戸時代になって初めて人が住み始めた場所ではなく、少なくとも考古学的には、はるかに古い時代から人の営みが続いてきた土地なのです。
さらに2025年2月には、内本町2丁目で住宅建築に伴う発掘調査が行われました。地表から約1.3mの深さで柱の跡と見られるピットや溝、土坑などが見つかり、土師器皿、瓦器椀、青磁といった鎌倉時代の遺物も出土しています。吹田市立博物館は、この調査によって中世から近世にかけての集落跡が、あらためて確認されたとしています。
今は住宅や道路が並ぶ内本町ですが、その地下には何百年も前にこの場所で暮らした人々の痕跡が今も眠っているわけです。
なぜこの一帯には、古くから人が暮らしたのか
吹田市の南部は、全体として平坦な市街地に見えます。しかし、昔の人が住む場所を選ぶうえでは、わずかな土地の高さの違いがとても重要でした。
内本町周辺には「吹田砂堆(すいたさたい)」と呼ばれる砂層の微高地があります。今の感覚ではほとんど気づかないような高低差でも、周囲に低湿地が広がっていた時代には、少し高い土地というだけで集落を築く大きな条件になります。
都呂須遺跡もこの吹田砂堆の上に立地しており、吹田市は、淀川下流の低湿な平野の中では、この場所が集落を形成するうえで比較的条件のよい土地だったと説明しています。あわせて、都呂須遺跡を含む一帯は三国川(現在の神崎川)の港町として、淀川水運のなかで重要な位置を占めていたとも考えられています。
この町を大きく発展させた「神崎川」
内本町の歴史を語るうえで、もうひとつ欠かせないのが神崎川です。
現在の神崎川は大阪市との市境付近を流れる身近な川ですが、かつては人や物を運ぶ重要な交通路でした。吹田市の「内本町・南高浜町周辺のまちなみガイドライン」によると、現在の神崎川にあたる三国川は785年の工事によって淀川とつながり、その後は京都方面と西国を結ぶ水上交通路として重要性を増していきます。
そして、神崎川と陸上交通のルートが交わる場所に生まれたのが、旧吹田村でした。川だけでも、街道だけでもない。「水路と陸路が交わる場所」だったことが、この町を発展させていったのです。
内本町周辺にあった「吹田の渡」
橋が当たり前ではなかった時代、川を渡るには渡し船が欠かせませんでした。吹田市は、内本町・南高浜町について、亀岡街道と神崎川が交差する付近にあった「吹田の渡」の周辺に形成された在郷町を母体として発展した地域だとしています。
大阪の高麗橋方面から京都の亀岡方面へ向かう旧亀岡街道もこの地域を通り、旧吹田街道などを通じて周辺地域とも結ばれていました。神崎川による水運、吹田の渡、亀岡街道などの陸路がつながる、まさに交通の要衝だったわけです。吹田市も、内本町・南高浜町から西の庄町界隈を「吹田発祥の地」と位置づけています。
江戸時代、内本町は「吹田村の中心」だった
江戸時代になると、現在の内本町周辺は吹田村の中心地になります。その歴史を今に伝えているのが、内本町2丁目にある旧西尾家住宅です。
吹田市の説明によると、旧西尾家住宅のある一帯は江戸時代には吹田村の中心地で、「渡路洲(あるいは都呂須)」と呼ばれ、京都と大坂を結ぶ舟運の拠点だったとされています。
ここで一つ、誤解しやすい点を補足しておきます。現在の内本町1〜3丁目のすべてが、かつて「都呂須」と呼ばれていたわけではありません。今の内本町という住所の中には複数の旧来の地域が含まれていて、そのうち旧西尾家住宅周辺を含む一帯に「渡路洲」「都呂須」という歴史的な名称があった、と捉えるのが正確です。
ひとつの「吹田村」を、複数の領主が治めていた
江戸時代の吹田村には、もうひとつ興味深い特徴があります。普通「○○村」と聞くと、一人の領主が村全体を治めていたように想像しがちですが、吹田村は違いました。
村の中には旗本・竹中氏の領地、旗本・柘植氏の領地、そして仙洞御料(上皇の所領地)が入り組んで存在していたのです。現在の市町村境のように、地域がきれいに一つの行政単位で整理されていたわけではありませんでした。
そして旧西尾家は、そのうち仙洞御料の庄屋を代々務めていた家です。こうした江戸時代の複雑な地域構造を知ると、現在の内本町に数多くの地域名が残っていることも、少し違って見えてきます。
今も内本町の中に残る「昔の名前」
吹田市が公開している自治会区域を見ると、現在の内本町1〜3丁目の中には、今もこれだけの名称が確認できます。
- 内本町1丁目:浜の堂、田中町、浜田町、西奥町、都呂須町、砂子町
- 内本町2丁目:旭町、堀奥町、西奥町、都呂須町、宮之前、砂子町
- 内本町3丁目:砂子町、川面町、宮之前、南町、都呂須町
もちろん、現在の自治会区域と昔の集落境界がそのまま完全に一致しているわけではなく、そこは分けて考える必要があります。それでも、「内本町」というひとつの住所になった後も、地域で使われてきた名称の一部が暮らしの中に残っていることは、とても興味深いところです。
「昔の吹田=農村」だけでは説明できない
吹田という地名から、昔は田畑の広がる農村だったと想像する方もいるかもしれません。もちろん農地はあり、農業も大切な産業でした。しかし内本町周辺の歴史を見ていくと、それだけでは語りきれません。
神崎川を利用した舟運、吹田の渡、亀岡街道などの陸上交通、そして商業活動。吹田市は、この地域を単なる農村ではなく、農村を基盤としながら商業や交通の機能を併せ持つ「在郷町」として発展したと位置づけています。今の落ち着いた住宅地からは想像しにくいですが、昔の内本町周辺は、人と物、船と旅人が行き交う、かなり活気のある場所だったと考えられます。
明治時代、交通の主役が「川」から「鉄道」へ
その交通体系も、永遠に続いたわけではありません。大きな転換点は明治時代でした。
1876年(明治9年)、官営鉄道の大阪〜向日町間が開通し、同年、吹田駅も開業しています。吹田市の資料によれば、この鉄道の開通によって水運は急速に衰え、吹田の渡も廃止されたとされています。人や物を運ぶ中心が、川と街道から鉄道へと移っていった、吹田という町にとって大きな節目でした。
その後1908年(明治41年)に吹田村が町制を施行して吹田町となり、1940年(昭和15年)には吹田町・千里村・岸部村・豊津村が合併して吹田市が誕生します。私たちが今知っている「吹田市」の姿へと、少しずつ近づいていくのです。
それでも、町の歴史は消えていない
現在の内本町には住宅やマンション、店舗が建ち並び、江戸時代の町並みがそのまま残っているわけではありません。それでも旧西尾家住宅や寺社、昔ながらの路地、そして自治会名として残る都呂須、西奥、宮之前、川面、砂子といった名前に目を向けると、この地域が歩んできた歴史の痕跡が今も点在しています。
吹田市も、内本町・南高浜町周辺について、旧西尾家住宅をはじめ板塀や漆喰塀、寺社、道標などが点在し、今も歴史を感じさせる町並みが残る地域として位置づけています。
「内本町」というひとつの住所の下に、いくつもの時代が重なっている
地図だけを見れば、内本町1丁目、2丁目、3丁目と、きれいに整理されたひとつの町です。しかし歴史をたどると、その下にはいくつもの層が見えてきます。
吹田砂堆の上に築かれた古い集落。弥生・古墳時代から続く人々の営み。中世の都呂須遺跡。神崎川を行き来した船。吹田の渡。亀岡街道。江戸時代の吹田村。庄屋を務めた西尾家。そして今も地域に残る西奥町、砂子町、宮之前、川面町、都呂須町といった名前。
住所が変わっても、その土地が歩んできた歴史まで消えるわけではありません。私自身、20年以上この吹田の地で家づくりの現場に携わってきましたが、普段何気なく通っている内本町の道も、「このあたりには、昔どんな人が暮らしていたのだろう」と考えながら歩くと、いつもの町が少し違って見えてきます。
吹田市の町をひとつずつ掘り下げていくこのシリーズ、次の町にも、今の街並みだけではわからない歴史がきっと残っています。
参考資料:吹田市が公開する「都呂須遺跡」「旧西尾家住宅」「内本町・南高浜町周辺のまちなみガイドライン」、吹田市立博物館「博物館だよりNo.104」、吹田市の自治会区域資料等
今 利之(こん・としゆき)
アイワホーム株式会社 マーケティングディレクター
2005年入社、吹田の地で21年。新築営業・リフォーム・メンテナンス、賃貸、工事部門など、現場の最前線で歩んできました。
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※創業36年、吹田の地で家族の暮らしに寄り添う住まいづくりを。吹田の家づくりを、これからも地域とともに。
