住宅のご相談で吹田市岸部エリアを車で走ることがよくあるのですが、そのたびに小さな違和感があります。
住所は「岸部」なのに、最寄り駅は「岸辺」。
さらに足を延ばすと、今度は「吉志部神社」「吉志部瓦窯跡」という、また違う漢字の「きしべ」が出てきます。
同じ読み方なのに、漢字が3種類。誤字でも表記ゆれでもなく、実はこれ、それぞれ違う時代に生まれた名前がそのまま今も残っている状態なんです。今日はこの「岸部・岸辺・吉志部」の謎を、地域の住宅会社としてわかる範囲で整理してみます。
この記事でお伝えしたいこと
- 成立順は「吉志部 → 岸部 → 岸辺」。一番古いのは現在の町名ではなく「吉志部」
- 渡来系「吉志(きし)一族」に由来する古代の歴史(約860年以上前の1164年文書にも登場)
- 難波宮(七尾瓦窯)と平安京(吉志部瓦窯)を支えた、古代の一大窯業・焼き物の生産拠点
- 明治22年の5村合併で誕生した「岸部村」と、1947年のJR駅開業時に「岸辺」が選ばれた理由
- 現在の岸部中4・5丁目に今も色濃く残る江戸時代の道と屋敷割の景観
結論:一番古いのは「岸部」ではなく「吉志部」
先に結論からお伝えすると、成立した順番はこうです。
吉志部 → 岸部 → 岸辺
現在の正式な町名は「岸部」なので、感覚的には「岸部が本家」のように思えますが、歴史はむしろ逆。吹田市立中央図書館の郷土資料によると、1164年の文書にはすでに「吉志部村」という名前が登場しており、少なくとも約860年前にはこの地名が使われていたことになります。
「吉志部」という古い呼び名は、今も吉志部神社や吉志部瓦窯跡にしっかり残っています。何気なく前を通っている神社の名前が、実は現在の「岸部」よりも古い地名を伝えているわけです。
「吉志部」の由来は渡来系の「吉志(きし)」一族
そもそも「吉志部」とはどういう意味なのか。
吹田市立中央図書館の郷土資料では、この地域に古くから吉師・吉士(きし)と呼ばれる渡来系の人々が住んでいたことが地名の由来とする説が紹介されています。吹田市自身も、古代には渡来系の吉志一族ゆかりの地と伝えられていると案内しています。
江戸時代の国学者・本居宣長も、吉志部について難波の吉士という氏族が住んだ、あるいは支配した地域ではないかと考察していたそうです。もちろん非常に古い時代の話なので断定はできませんが、「きしべ」という響き自体がかなり古くから続いていることは間違いなさそうです。
岸部は古代の「焼き物の町」だった
個人的にいちばん驚いたのが、岸部が古代の一大生産地だったという話です。
現在の千里丘陵周辺では、古墳時代の5世紀頃から須恵器の生産が始まりました。焼き物に適した粘土、窯を作りやすい丘陵の斜面、燃料になる木——この地域には条件がそろっていたんですね。
6世紀になると生産規模はさらに拡大し、吹田市によると、南北約3km・東西約1.5kmの範囲に、7世紀中頃までに約60基もの窯が造られたとされています。今の住宅地からは想像しにくいですが、当時は「原材料も土地条件もそろった一大生産拠点」だったということです。
岸部の瓦は難波宮へ、吉志部の瓦は平安京へ
さらに時代が進むと、岸部周辺では器だけでなく瓦も大量に生産されるようになります。
現在の岸部北5丁目にある七尾瓦窯跡(国史跡・1980年指定)では、7基の窯跡が確認されており、そのうち6基が登窯、1基が平窯です。この窯では奈良時代に造営された後期難波宮に瓦が供給されていました。
そして794年、桓武天皇による平安京造営が始まると、その瓦を焼くために操業したのが吉志部瓦窯跡(国史跡・1971年指定)です。文化庁の記録によれば、平窯9基・登窯4基の計13基が確認されており、出土した瓦は初期平安宮の造営に使われた瓦と同笵(同じ型)とみられるものが含まれ、平安宮への瓦供給窯としては現在知られている唯一の例とされています。
- 奈良時代:大阪の難波宮 → 七尾瓦窯(岸部)
- 平安時代:京都の平安京 → 吉志部瓦窯
古代の国家的な大事業を、岸部の「瓦づくり」が二度にわたって支えていた——住宅の仕事をしていると、なんだか他人事に思えない話です。
「岸部」という漢字が生まれたのは明治時代
現在の「岸部」表記が生まれたのは、江戸時代でも古代でもなく、明治時代のことです。
1889年(明治22年)、町村制の施行にともない、吉志部村・南村・東村・七尾村・小路村の5村が合併し、新しい村名として「岸部村」が誕生しました。ここで初めて、現在につながる「岸部」という表記が登場します。ただし「吉志部」の名前が消えたわけではなく、大字として残されました。
その後1940年(昭和15年)、岸部村は吹田町・千里村・豊津村と合併して吹田市が誕生し、行政上の「岸部村」という名称はいったん姿を消します。地名というのは、意外と固定されたものではないんですね。
1947年、駅名だけ「岸辺」になった理由
ここでもう一つの「きしべ」、JR岸辺駅が登場します。岸辺駅の開業は1947年。新駅設置の際に「岸辺」という名称が付けられました。
なぜ「岸部駅」ではなく「岸辺駅」だったのか。吹田市立図書館の調査でも紹介されている説の一つが、「岸部」と表記すると「きしぶ」と誤読される可能性があるため、読みやすい「岸辺」を採用したというものです。このあたりが古代の浪華の海辺にあたることから「岸辺」とした、という説もあり、理由は一つに確定しているわけではありません。ただ、住所の「岸部」を書き間違えたのではなく、駅名として意図的に「岸辺」の字が選ばれたということは分かっています。
1975〜76年、「岸部」が町名として復活
1940年に一度行政名から消えていた「岸部」は、1975〜1976年の町名変更で復活します。旧吉志部・南・東・七尾・小路などの地域が再編され、現在の「岸部北」「岸部中」「岸部南」が誕生しました。
これで現在の状態が出来上がります。
- 住所は「岸部」(1975〜76年に復活した町名)
- 駅は「岸辺」(1947年開業時に付けられた駅名)
- 神社・遺跡は「吉志部」(860年以上前から続く古い地名)
3つの「きしべ」が共存しているのは、それぞれ違う時代に生まれた名前だからなんですね。
今の岸部中にも「昔の村」の形が残っている
この話、実は昔の地名を調べて終わりではありません。現在の街並みにも、その痕跡は残っています。
吹田市によると、現在の岸部中4丁目・5丁目には旧吉志部東村の景観が残っており、大光寺前の通りはかつて村の中央を南北に通っていた古い道だそうです。江戸時代の図面と比べても、現在の道路や屋敷割は大きく変わっていないといいます。
私たちは住宅会社として、日頃からこのエリアの土地の形や道の幅を見ていますが、「昔からある住宅地だから」と何気なく通り過ぎてしまう道が、実は江戸時代以前から続く村の形をそのまま残していることもある。そう考えると、見慣れた街並みが少し違って見えてきます。
まとめ:「岸部」も「岸辺」も間違いではない
住所を書くなら「岸部」。電車に乗るなら「岸辺駅」。神社へ行けば「吉志部神社」。
一見ややこしいですが、それぞれにちゃんと理由がありました。
- 吉志部:古代から続く、最も古い地名
- 岸部:明治時代に生まれ、現在の町名につながった名前
- 岸辺:戦後の駅開業時に生まれた駅名
つまり「岸部」と「岸辺」は表記ゆれでも誤字でもなく、それぞれが違う時代の「きしべ」を今に伝えているということです。
次に岸辺駅を利用するとき、駅名の「辺」と住所の「部」を少しだけ見比べてみてください。いつもの街が、少し違って見えるかもしれません。
今 利之(こん・としゆき)
アイワホーム株式会社 マーケティングディレクター
2005年入社、吹田の地で21年。新築営業・リフォーム・メンテナンス、賃貸、工事部門など、現場の最前線で歩んできました。
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※創業36年、吹田の地で家族の暮らしに寄り添う住まいづくりを。吹田の暮らしに、いちばん近い住宅会社でありたい。
